11/10/2022

あきらめなかったから今がある
-廣道純さん

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きつくて、難しい。だから挑みたくなる

世界最大の車いすだけのマラソン大会として知られる「大分国際車いすマラソン」。その開催地でもある大分を中心に活動しているのが日本初のプロ車いすランナー廣道 純さんです。1996年に大分国際車いすマラソンで総合2位を果たす他、シドニー、アテネ、北京、ロンドンとパラリンピックは4大会連続出場。ふたつのメダルも手にした廣道さんのアスリートとしての道のりとともに、大分国際車いすマラソンの魅力を伺いました。

もう一度、風を切って走りたい!

高校1年の時のバイク事故で脊髄損傷という大けがを負い、突然の車椅子生活となった廣道さん。当時はショックも大きかったのではないでしょうか。

「救急病院で目覚め、もうバイクに乗ることも自分の足で走ることもできないと知ったときはさすがに愕然としました。でも生きてるや!という喜びの方が大きかったですね。そして、すぐにでも、病院のドクターリハビリの先生が僕の顔を見るなり『車いすでもスポーツできるんやで!』と言ってくれて。その言葉に救われました。足が不自由になってもできることはまだまだあるんだと気づき、『半身不随なんて大変だな』『まだ若いのに可哀そうに』と声をかけてくる人に『死んでるよりマシやん!』って笑って返せるようになったんです。そのドクター先生に勧められたのが車いすマラソン。もう一度、風を切りながら走れるんだと思うとワクワクして。退院した数カ月後には、車いすマラソンの大会に出ていました」

実際に、レースに参加した印象はいかがでしたか?

「パラスポーツというと、まだまだ身体の不自由な部分を補って頑張っていると捉えられがちなのですが、そんなのは関係なくて。ひとつのスポーツとして楽しめるものだと実感しました。どの競技にも世界トップレベルの選手がいて、そこに追いつくまでに努力をすることで自分も世界で勝負できるようになる。そこは健常者のスポーツと変わらない、練習のきつさも、勝つことの難しさも、一緒に競い合える仲間がいる喜びもある。だからのめり込めるんですよね」

ハングリー精神を持つことの大切さ

レースに挑むには、体力はもちろん、心の強さも必要になりますね。

「そうですね。パラスポーツでは、人によって使える身体機能がバラバラ。クラス分けで平等に…とはなっているけれど、そのクラス内でも有利な選手、不利な選手というのは出てきます。例えば、僕の場合は足が重荷になるうえに下半身が麻痺して腹筋が使えない。いっそ、両足切断で空気抵抗がないほうが有利だったのにと思ったこともあります。でも、『だから勝たれへん』と言い訳にしてしまったらそこで終わり。ハングリー精神を持って、どうやったら勝つことができるだろうと考える。そして努力を重ね、他の選手よりも早く走れるようになるとがぜん面白くなる。あきらめないことの大切さを僕は車いすマラソンで学びました」

高みを目指そうと、世界チャンピオンのもとで練習を積んだこともあるのだとか。

「まずは日本で一番になりたくて。そのためには何が必要なのか、教えを請うたのが当時の車いすマラソン世界記録保持者ジム・クナーブです。ボストンマラソンの会場で彼を見つけ、カタコトの英語で話しかけたら、『ここに連絡してきなさい』と名刺をくれ、彼のカリフォルニアの家でホームステイまでさせてもらえることに。ハードな練習メニューを一緒にこなすだけではなく、メンタルトレーニングやプロのアスリートとしてのふるまいなど、彼にはいろんなことを教わりました」

世界王者の胸を借りて挑んだ大舞台

96年の大分国際車いすマラソンでとうとう日本のトップに。しかも、スイスのハインツ・フライ選手に次いでの総合2位に輝きました。

「あのレースでは、トップのハインツが独走態勢で僕は2位集団にいました。ところが30キロあたりで、当時の日本チャンピオンの選手に逃げ切られてしまって。やっぱりあかんのか…と半分あきらめかけたときに、同じ集団にいたアメリカの選手が『おい、ジュン、がんばれ!』と声をかけてくれたんです。そこでギアが入って、40キロ手前で追いつくことができました。そこからは突き進むだけ。なんとか後ろを引き離し、ゴール手前でこれで日本一になれると確信したら涙が溢れてきてね。『とうとう勝てたぞー!』って。世界2位にもなり、プロになる決意ができたのもこの大会のおかげ。22歳のときのことです」

そして、2000年のシドニーからパラリンピック4大会連続出場し、ふたつのメダルも獲得します。

「シドニーではもちろん金を狙っていました。それで、大会前にハインツに金メダルを獲りたいから一緒に練習させてほしいとお願いしたの。そしたら『いいよ。でも、金はオレが獲るからね』って。『いやいやオレが獲る』なんて会話をしながら大会に向けて必死に練習。結果はハインツに僅差で負けての銀。もっと早くスパートをかけていたら…と悔しさはあったものの、表彰式でメダルを首にかけてもらい、ハインツに『おめでとう』と言ってもらったら、もう感動でしたね。ちなみに、ハインツは東京 2020 パラリンピック競技大会では手で漕ぐ自転車競技、ハンドバサイクル競技に出場し、なんと63歳で銀メダルを獲ったんです。まさにレジェンドです」

車いすが違和感なく溶け込んでいる街

廣道さんとハインツさんが何度も出場した大分国際車いすマラソンも今年で41回目。今回の見どころを教えてください。

「周回コースに変更となった去年の大会では、1999年にハインツが出した世界記録(1時間20分14秒)が同じスイスのマルセル・フグの1時間17分47秒という驚異的な記録によって22年ぶりに更新されました。果たして、今年もマルセルが圧倒的な強さを見せるのか、それとも集団でのレース展開になるのか。僕自身全く予想がつきません。ぜひ、レースの行方を一緒に見守りましょう!僕は今回ハーフマラソンに出場するのでゴール後に観戦します」

出場する世界中のアスリートたちもこの大会を楽しみしているようですね。

「海外で他の選手に会うと、『今年も大分に帰るぞ!』とみんなが口々に話しています。大分のこの大会は、沿道でたくさんの方々が応援してくれて雰囲気も抜群。地元の新聞には選手全員の名前と記録が掲載されるので、選手はみんな新聞を買って帰るんですよ。街を見まわしても、バリアフリー化が進んでいるのはのもちろん、段差があるところも居合わせた人がサッと手助けしてくれる。車いすが違和感なく溶け込んでいるのも大分の魅力です。あまりに居心地がよくて僕なんか関西から移住したくらいですから(笑)。大会後はアスリートの皆さんも応援にいらっしゃった方も、温泉に入って疲れを癒し、新鮮な海の幸でお腹を満たせる。レースはもちろん、大分という街を存分に満喫して頂ければ嬉しいです」

<プロフィール>
HIROMICHI Jun
EY Japan 所属
1973年、大阪府出身。高校1年の時、バイクの事故で半身不随に。17歳で車椅子レースをはじめる。1996年大分国際車いすマラソンで総合2位、2000年シドニーパラリンピック800mで銀メダル、2004年アテネパラ銅メダル、2008年北京パラ8位、2012年ロンドンパラ6位。現在もプロ車いすランナーとして世界各国でレースに出場しながら選手育成や車いすレースの普及に努める一方、妻の故郷の福岡市に引っ越した今も大分を拠点にテレビやラジオなどでも活躍。