初めて出場したパラリンピックはリレハンメル 1994 パラリンピック競技大会。以来、夏冬合わせて8回のパラリンピックに出場し、これまでに金を含む7つのメダルを獲得。その他の国際大会でも数々の優勝経験を持ち、パラアスリートのレジェンドとも称される土田和歌子さん。幾度の挫折を乗り越えながらも挑戦し続ける土田さんに、車いす競技の魅力を伺うとともに、パリ2024パラリンピック競技大会への思いを語っていただきました。
高校2年のときに交通事故で脊髄損傷という大けがを負い、車いす生活となった土田さん。その現実を受け入れるつらさは想像に難くありません。
「もう一生、自分の足では歩くことができず、車いす生活になると言われたときは、本当にショックでした。ただ、私が入院していたのは、障がいのある人が社会復帰するためのリハビリテーション施設がある病院で、カラフルな車いすで勢いよく駆け抜けていく患者さんをよく見かけたんです。車いすでこんなにアクティブに動けるんだ!自分もあのかっこいい車いすに乗って早く元の生活に戻りたい!と思えたことが障がいを受け入れるきっかけにもなりました。」
その後、パラスポーツに挑戦するのにはどんな経緯があったのでしょうか。
「リハビリの一環として医師からスポーツをすすめられたのが最初でした。小学生のときにミニバスケットボールをやっていたこともあり、もともとスポーツ好きでした。車いすバスケをはじめ、陸上競技などいろんな選択肢がある中で、出会ったのがアイススレッジスピードレースという競技でした。選手育成を目的に長野県が主催した講習会に遊び心で参加したところ、3カ月後のリレハンメル1994大会に出場してみないかというまさかのオファーが。そこから私のアスリート人生がスタートしました。」
競技を始めて3カ月後にリレハンメル1994大会に出場。さらに4年後の長野1998パラリンピック競技大会での活躍で、一躍注目を浴びることになります。
「アイススレッジスピードレースで挑んだリレハンメル1994大会は惨敗でした。準備期間はわずか3カ月ですし、当然の結果です。けれど、ここでの経験が私に大きな変化をもたらしてくれたんです。なんといっても、レースで戦ったノルウェーの選手たちの姿に衝撃を受けました。皆さん筋骨隆々で、しかも40、50代の選手が何人も表彰台に立っている。障がいや年齢などを言い訳にせず、ストイックなトレーニングを積むことで世界のトップとして活躍する姿がまぶしくて。自分もあんなふうになりたいと思えたことが4年後の長野1998大会に向けての原動力にもなりました。」
長野1998大会では金2銀2、計4つのメダルを手にし、さらに陸上競技に転向後のアテネ2004パラリンピック競技大会では5000mで金メダルを獲得。日本人初の夏冬パラリンピックでの金メダリストとなりました。
「自国開催となった長野1998大会では、強力なサポート体制や共に頂点を目指す仲間たちの存在など、どんな場面でも、自分一人じゃないという心強さを持てたことが大きかったですね。パラ陸上に転向後、2度目の夏季大会となったアテネ2004大会で金メダルをいただいたときの感激は今でも心に残っています。その都度、目標設定をし、挑戦し、そうしてたどり着いた頂点。表彰台の一番高い場所から眺める景色は感慨深く、またこの場所に立ちたいという思いがより強くなりました。」
土田さんが感じる車いす競技の魅力とはどんなことでしょうか。
「なんといっても自分の体と競技用車いすを一体化させて生み出すスピード感ですね。車いすマラソンでは平均時速はおよそ25km/h、下り坂ではその倍近くのスピードが出ます。レースとなると、集団内での駆け引きやレース展開の組み立ても重要ですし、車いすを操るテクニック、腕力や持久力といったフィジカル面、メンタル的な強さなどあらゆることを融合させて、自分のパフォーマンスを高めることが結果につながります。練習すればするほど、レースに挑戦すればするほど、自分の新たな可能性を感じられることにも魅力を感じます。」
多くのアスリートが目標にしているパリ2024大会も目前ですね。
「4年に一度のパラリンピックは、いわば国際大会の最高峰。私自身、大会ごとに順位だったり、自己ベスト更新だったりを目標設定して、努力を積み重ねてきました。もちろん、結果はいいことばかりではありません。でも、自分にはまだ伸び代があるはずだと思わせてくれるのがパラリンピックです。実際、ぜんそくを克服するために始めた水泳を生かして、東京 2020 パラリンピック競技大会ではトライアスロンにも出場しました。今度のパリ2024大会では、自分の競技人生の集大成にするとあえて公言することで挑戦することの意味を持たせ、モチベーションにつなげています。」
初めてパラリンピックに出場してから30年という節目の年に、集大成として挑む大会。その言葉の重さを感じます。
「30年間、本当にいろんなことがありました。冬の競技から夏の競技に転向し、出産や育児も経験。満を持して、車いすマラソンで金を獲るぞと意気込んで臨んだ北京2008パラリンピック競技大会ではクラッシュに巻き込まれ、大けがを負って棄権したことも。実は、そのままマラソンで金メダルを取れずにいるという不完全燃焼感が自分の中にあるんです。だからこそ、もう一度、自分の気持ちを燃やして挑みたい。それがパリ2024大会に向けた、私の今の心境です。」
車いすユーザーの視点から見て東京のよさはどんなところにあると思いますか?
「バリアフリーやユニバーサルデザインが組み込まれた近代的な設計の施設が多く、そのクオリティーの高さはさすが東京だなと感じます。そこにもっと“気軽さ”が加われば、車いすユーザーにとってより心地よさを感じるかなと。そのためには、障がいのある方たちが積極的に出歩くことも街の進化につながるのではないでしょうか。」
観光地もたくさんある東京で、土田さんおすすめのスポットを教えてください。
「メジャーな場所ではあるのですが、私が好きなのは浅草です。東京マラソンでも浅草を通るのですが、ずっと前傾姿勢でいる競技の中で、雷門が正面に見える地点になると必ず、大きな提灯を据えた勇壮な門を眺めます。42.195kmという長いレースの中で、東京の伝統を感じながら、ここからまた頑張るぞと気合を入れる地点でもあります。あとは、豊かな自然の中でアウトドアも楽しめる青梅市など西多摩エリアもお気に入りです。近代的なものから伝統的なもの、華やかな都心から空気のおいしいローカルなエリアもある、幅の広さも東京の魅力だと思います。」
土田和歌子
TSUCHIDA Wakako
1974年、東京都出身。ウィルレイズ所属。高校2年のときに交通事故で脊髄を痛め、車いす生活となる。アイススレッジスピードレースの選手としてリレハンメル 1994 パラリンピック競技大会出場。長野1998パラリンピック競技大会では1000m、1500mで金メダル、100m、500mで銀メダルを獲得。1999年からは陸上競技に転向。アテネ2004パラリンピック競技大会では5000mで金メダル、フルマラソンで銀メダルを獲得。東京2020パラリンピック競技大会ではトライアスロンと車いすマラソンの2競技で出場。次なる挑戦はパリ2024パラリンピック競技大会。